ノストラダムスの大予言


丸かぶりする人間にとって、恵方巻に前も後ろもない。しかし、海苔と米に巻かれて丸かぶりされるウナギにとっては、厳然として頭側と尾側とがある。これが≪avant apres≫ の意味するところである。ウナギとなったノストラダムスは、こう叫びたかったに違いない。

ウナギ(アンギーユ)、
それは私(モワ)だ!
ウナギである私(アンギーユモワ)は、
いま前を、いま後ろを、
丸かぶりされているのだ!!


では、もう一度『百詩篇』第10巻72番を見つつ、まとめに入ることにしよう。

L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois
Du ciel viendra un grand Roi d'effraieur
Resusciter le grand Roi d'Angolmois.
Avant apres Mars regner par bon heur.

1999年、節分までの期間、
関西方面から恵方巻が来るであろう、
ウナギ(それは私だ)の太巻を甦らせ、 その前後を、
丸かぶりする習慣が、招福の名のもとに(関東以北を)支配するであろう。

ほぼ無理のない解釈である。ただ気になるのは、ウナギでありフランス人であるノストラダムスが、空ならぬ上方を関西地方と解したかどうか。はなはだ疑わしいものである。あるいは≪ciel≫は、関西弁の疑問文「せやろ?」であるかもしれない。

「ウナギは精がつきまっさかいなあ」
「せやろ?」

ウナギであるノストラダムスは、そんな会話を小耳にはさんだとも考えられる。ウナギの小耳がどこにあるのかは、私にはわからないが、ともかくも恵方巻の襲来が、『百詩篇』第10巻72番の解釈としては、もっとも妥当なのではあるまいか。せやろ?




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