15分でわかるサルトル


即自存在、たとえば石ころは、自らのうちに「無」を抱え込むことはない。「さっき小学生に蹴られた俺は何なんだ」とか、「蹴られたくないから、明日はコーヒーカップになろう」とか考えたりしない。

サルトルは、即自存在を次のように定義する。それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬような存在である、と。

難しく考えてはいけない。石ころは石ころ(=あるところのもの)であり、コーヒーカップ(=あらぬところのもの)ではない、というだけのことである。

一方の対自存在は、次のように定義される。それがあるところのものであらず、あらぬところのものであるような存在である、と。これも難しくはない。 A子さんはB君とつきあわないはずのA子さん(=あるところのもの)ではなく、B君とつきあってしまうA子さん(=あらぬところのもの)である、ということである。

かくして対自存在(=人間)とは常に「あるところのもの」から脱け出し、「あらぬところのもの」を目指す存在である。衣装を変えるごとく、自由なのである。

明日、いきなり大富豪になるなんていうのは、無理かもしれない。しかし、明日、「大富豪を目指す人間」になるという自由はある。それに比べるなら石は、コーヒーカップになれないばかりか、「コーヒーカップを目指す石」にすらなれないのである。

妻も子もあるし、明日も会社へ行かなければならない。私は石ころと同じだ……などというのは嘘であり、サルトル流にいえば欺瞞である。転職する、起業する、蒸発する。どれを選ぼうと自由であるのに、敢えて「明日も会社へ行く」を選んでいるにすぎない。

次の言葉と照らし合わせつつ考えてみよう。サルトルは文学者でもあったためか、いろいろ印象的なキャッチフレーズを残している。これは中でも有名なものである。
実存は本質に先立つ
ここにペーパーナイフを作ろうとしているデザイナーがいたとしよう。そのとき、これこれこういうペーパーナイフにしよういうアイデアが、まずデザイナーの頭の中にある。しかる後に実際のペーパーナイフが作られる。つまり、ペーパーナイフの場合は、本質が実存(ここでは ‘実際の存在’ 程度の意味)が先立っている。

実存主義とは何か
実存主義とは何か
J‐P. サルトル
講演「実存主義はヒューマニズムか」を収める。比較的、平易である。
しかし、あなたやA子さんの場合は、これこれこういう人間であるよりも前に、まず在る。まず生きている。しかる後に「明日も会社へ行く私」や「B君とつきあわない私」が選択される。

あなたやA子さんをデザインするのは誰か? 神田うのと考えるのが滑稽なように、神や国家、家族や会社と考えるのもまた滑稽である。デザインするのはあなた自身、A子さん自身にほかならない。すなわち、実存は本質に先立つのである。

ペーパーナイフの喩えは、1945年の「実存主義はヒューマニズムか」と題された講演で、サルトル自身が使ったものである。

当時、共産党とカトリック教会の両陣営から、実存主義は反ヒューマニズム、反人間主義だと批判されており、それに応えるかたちで行われたのが、この講演であった。それについては後で述べるとして、まず、サルトル哲学の他のキャッチフレーズを見ていこう。
自由であるように呪われている
「明日も会社へ行く私」や「B君とつきあわない私」は、私(私の意識)にとっては衣装のようなものである。私と衣装の間には「無」がある。その「無」があるからこそ、人間は自由でいられる。しかし、どんな衣装を選ぶにしても不安がつきまとう。

「B君とつきあう私」を選べば、「うの先輩に嫌われないか」と不安になり、「B君とつきあわない私」を選べば、「幸せを逃すのでは」と不安になる。人間は、その不安から逃れることができない。自由であるとは、自由であるように呪われていることである

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