自由という刑に処せられている
実存は本質に先立つ。人間は衣装を選ぶよりも先に、まず実存している。丸裸のまま、この世界に放り込まれているのである。丸裸の私は、神田うのにも誰にも指示を仰ぐことはできない。仮に神田うのが口出ししてきたとしても、最終的に決断を下すのは私しかいない。ここに、先ほどの不安が生まれる。しかし、丸裸のまま世界を歩くわけにはいかず、なんらかの衣装を選ばねばならない。B君とつきあうかどうかの判断を保留したとしても、それは「判断を保留する私」を選んだに過ぎない。人間は自由でいられるというよりも、むしろ自由でしかいられない。いわば人間は、自由という刑に処せられているのである。
地獄とは他人だ
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「あなた、芸能人なんだから、もっと、ちゃんとしたホテル使わないとダメでしょう?」と言うと、うのはニヤッと笑って行ってしまう。B君との交際を認めてくれたのかどうか、真意はわからない。
A子さんは、どうする? B君との交際は諦めようか?「神田うのの後輩」という衣装を着て生まれたかのように、衣装と自分との間に「無」はないかのように、石のように、物質のようにふるまおうか? A子さんの目には、うのの意識は見えない。見えるのは物質としての身体だけである。この際、目に見えない真意など気にせず、うの先輩を石であると思って、B君との交際を続けようか……。
事情は神田うのも同じで、A子さんの意識は見えない。かくして世界は相手を石にするか、相手に石にされるかの、メドゥーサ同士の争いの場となる。地獄とは他人だ。
人間は、自由である以外のあり方をもたない。しかし、どこまで行っても自由であるわけではない。A子さんの自由の限界には、神田うのが立ちはだかる。その他、多くの他人が、A子さんを取り囲む状況を形づくる。その状況に、A子さんは拘束される。
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実存主義 松浪信三郎 |
パスカル以来の実存主義の系譜をたどる、優れた入門書。現在は品切のようである。残念。 |
A子さんが自分を拘束し直した新たな状況は、神田うのにとっても新たな状況である。また、神田うのにかかわるCさんにとっても新たな状況であり、CさんにかかわるDさんにとっても新たな状況であり……そう考えていくと、全世界にとって新たな状況である。つまりはA子さんがどんな選択をしようとも、全世界の未来に対して責任を負うことになる。
サルトルが活躍していた頃には、まだエコロジーに関する議論は盛んではなかったように思う。だが、たとえばゴミの分別という些細な選択は、地球の未来に対する責任を負うかたちで行われるのではないか? そう考えるなら、彼の主張もさほど大げさではない。
キリスト教徒にとっては最後の審判。共産主義者にとっては共産主義国家の設立と、究極的には国家の死滅。それぞれ、未来が個々人のあり方を決定づけている。しかし、実存主義は個々人が未来のあり方を決定づけるとする。両陣営から批判されたサルトルであったが、彼にいわせるならば、この実存主義こそ真のヒューマニズムなのである。
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