昨日はB君の誘いを、きつい言い方をして断ってしまった。友達としてならいい人かもしれないので、今日はやんわり断ってみよう……と思っていたら、やはり、きつい言い方をしてしまった。昨日のA子さんと今日のA子さんとには隙間があり、やんわり断ろうと思っていたA子さんと、きつい言い方をしたA子さんとには隙間がある。
どうであれ、A子さんは隙間だらけである。そのような隙間を、サルトルは「無」と呼ぶ。A子さんならずとも、われわれ人間は常にそのような無を介在させつつ、自分自身と対面しているのである。
たとえば、私たちの目は私たちの目を見ることができない。しかし、一方で私たちの目は、コーヒーカップを見ることはできる。つまり、私たちの視線をコーヒーカップに向けることはできる。同じように、私たちの意識をコーヒーカップに向けることもできる。私たちとコーヒーカップの間には、距離(=無)があるからである。
目をつぶると視線を向けることはできなくなるが、見えないコーヒーカップに意識を向けることはできる。このとき、コーヒーカップに意識を向けるのを止めてみよう。意識はコーヒーカップ以外の何ものかに向いていることが、おわかりになるだろうか。
意識とは、常に「何ものかについての意識」である。
熟睡しているとき、意識は何ものにも向いていないのではない。意識そのものがないのである。意識が生じるとき、それは必ず「何ものかについての意識」である。そして、その何ものかと私たちの間には、「無」が横たわっている。
さて、私たちは意識をコーヒーカップにではなく、「B君とつきあわないはずの自分」に向けることもある。このように自分自身を含む何ものかとの間に無を介入させることで、ようやく存在するような存在を、サルトルは対自存在と呼んでいる。
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・物質=存在するもの=即自存在
・人間=実存するもの=対自存在
ただし、ここでいう人間とは人間の意識である。さて、こうなると次の二点に注意しなければならない。第一に人間を対自「存在」と呼ぶのは、おかしいのではないか? なぜなら人間は実存するのであって、存在するのではないのだから。
「存在」という語の意味合いは、哲学的立場によっていろいろあったりするのだが、少なくともサルトル哲学に沿って考えれば、その通りである。人間を対自「存在」と呼ぶのは、おかしい。ここは即自存在をそう呼ぶように、対自存在もそう呼ぶといった程度の単なる語呂合わせとしてご理解いただきたい。
第二に「私は実存する」という場合の「私」が私の意識であるなら、意識以外は「私」ではないのか? たとえば物質である私の身体は、「私」ではないのか?
これは古来より、さんざん議論されてきた問題である。たとえば、意識も身体も私ではないとするのが古代インド哲学の立場である。だが、サルトル哲学を理解するうえでは、私とは私の意識であるとした方がすっきりする。それを前提として話を進めていこう。
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