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仮にA子さんとしておこう。神田うのの方もまるで妹のように可愛がっているのだが、ある日、そのA子さんに悩みを打ち明けられる。B君につきまとわれて困っているのだ、と。
B君というのは同じ芸能界の人間であってもいいし、青年実業家でもプロサーファー(なんだ、そりゃ?)でもいい。実は神田うのにしたって、別に神田うのでなくても構わないのだが、いかにも余計な口出しをしそうな感じなので、やはり、ここは神田うのでなくてはならない。うのは当然のことながら、次のように忠告する。
「あなた、今がいちばん大切な時なんだから、ねえ? わかるでしょ? あんな、B君みたいないい加減な男とつきあっちゃ、絶対ダメ!!」
こうなると話はどちらの方へ進展するのか。皆様は、どうお考えであろうか。十中八九、A子さんはB君とつきあい始めてしまうような、そんな気が私にはするのである。別に二人がつきあわなくても大した支障はないのだが、やはり、ここはデキちゃった結婚にまで発展することにする。結婚式当日、うのは居並ぶ報道陣に向けてこう話す。
「B君となんか、つきあっちゃダメっていったんですよ。でも、こうなちゃったら、しょうがないですよね。幸せになってくださぁ~い」
さて、いまから解説するは、実存主義と呼ばれるサルトルの哲学である。あとで再び述べるが、まずは実存 existence について簡単に触れておこう。それは本質と対立する概念であり、サルトルにおいては、とくに人間を指している。語源はラテン語の exsistere であり、これは外に(ex)立つ(sistere)ことを意味している。
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存在と無 現象学的存在論の試み I サルトル |
主著である。しかし、こんな本が文庫になるとは思わなかった。はたして採算は合うのか? |
それまでの日常。守ってきた習慣や規律。周囲(家族、会社、神田うの)から求められるであろう期待像。A子さんもCさんも、そういったものの外に(ex)立って(sistere)いる。人間は「実存する」のであって、単に「存在する」のではない。
これに対して石ころの本質は、どこまで行っても石ころである。「いままで雨に濡れてきた俺は何だろう」とか、「さっき小学生に蹴られた俺は何だろう」とか、それまでの日常の外に立つことはない。石ころは「存在する」のであって、「実存する」のではない。
以上がサルトルの、実存主義の大まかな構図となる。人間は「存在する」のではない。この点を彼の主著『存在と無』に即しながら見ていくことにしよう。
「無」というと、禅や老子を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれない。が、ここで述べようとしている「無」は、とりあえず、そんな東洋的無とは関係ない。もちろん、比較してみるのは皆様の自由である。
神田うのの後輩としてあるべきA子さん、つまりB君とつきあわないはずのA子さんと、実際にB君とつきあってしまったA子さんとは分裂している。つまり、A子さんの中には隙間が生じている。では、B君とつきあわなければ隙間は生じないのか?
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