レーニン・ダダ


ドイツの詩人フーゴー・バルが、チューリッヒのシュピーゲルガッセ街に芸術クラブ、キャバレ・ヴォルテールを開店したのは、1916年2月のことである。第一次世界大戦の禍を逃れるため、中立国の一都市チューリッヒには、当時ヨーロッパ中の文化人、芸術家が集まってきており、バルもそのうちの一人であった。

わずか6ヵ月の短い期間ではあったが、ソワレ(夕べ)と称する挑発的なパフォーマンスが、そこでは繰り返し演じられた。このキャバレ・ヴォルテールこそ、パリ、ベルリン、ニューヨークへと飛び火し、国際的芸術運動――というより反芸術運動――へ発展したダダの発祥の地である。

開店で賑わう2月5日の来訪者について、バルの日記はこう伝えている。
オリエント風の顔立の小男四人組が、画帖やキャンバスを小脇にかかえて姿を現し、丁重に何度もお辞儀をした。画家のマルセル・ヤンコ、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ヤンコと、もう一人が名乗り出たが、第四の人物の名前は思い出せない。
トリスタン・ツァラの名の早々とした登場に、まずは注目しておこう。

キャバレの屋号は、無論、18世紀フランスの哲学者ヴォルテールに由来する。一方、バルの出身は、フランスとは交戦中のドイツであり、また中立都市とはいえ、チューリッヒはドイツ語圏に属している。屋号に込められた意図は明白であって、膨れ上がったナショナリズムの波へのささやかな抵抗である。さらに想像すれば、芸術を通じての各国人の交流、それも幾分なごやかな雰囲気のものを目指していたに相違ない。

ダダをダダたらしめた人物こそ、トリスタン・ツァラにほかならない。写真で見る限りは頼りなさげだが、この手のヘナチョコ風が過激に走り、世間をあっと驚かせることはままある。

とはいえ、ここまではアヴァンギャルド芸術史において常識に属する。以下では、バルが名前を思い出せなかったという「第四の人物」に焦点を当てていく。

チューリッヒ・ダダに関する、その驚くべき論考を読んだのは私が20代の頃のことである。執筆者はパリ第一大学教授、ドミニク・ノゲーズ。かつて邦訳も出版されていたが、絶版となっている。芸術史の片隅に置き忘れられ、誰からも顧みられぬままとなるのは、いかにも惜しい。復刊を望みつつ、その概要を述べていきたいと思うのである。

さて、ダダイストたちが乱痴気騒ぎに興じていた頃、同じチューリッヒにもう一人、歴史上重要な人物が間借りしていたことはよく知られている。ウラジミール・イリイチ・レーニンである。間借り先の住所はシュピーゲルガッセ街14番地。1番地にあったキャバレ・ヴォルテールとは、ほんの数メートルしか離れていない。

ウラジーミル・レーニンは、ロシアの革命家である……などとは今更のようだが、ちょっと確認しておきたい。結果として革命が成功したからこそ、彼は革命家と呼ばれるのであって、成功していなければただの犯罪者である。事実、彼はロシア官憲の手を逃れるために、写真のような変装もいとわず、ヨーロッパ各地を転々としている。

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