レーニン・ダダ


その間の彼の暮らしぶりは、どのようなものであったか? たとえばクルプスカヤ夫人は、例のシュピーゲルガッセ街14番地の間借り先について、次のように語っている。
私たちの部屋はとても明るかったのですが、中庭に面していて、ソーセージ工場の隣だったため、その辺りの空気はとてもひどいものでした。夜遅くにしか窓を開けられないほどでした。
はじまりのレーニン (岩波現代文庫)
はじまりのレーニン
中沢新一
レーニンとヤコブ・ベーメとを結びつけ、牽強付会という評もある。しかしながら、レーニンのご陽気な側面にも触れた珍しい一冊ではある。
レーニンの身近にいた人々の証言。正真正銘の一次資料を、ドミニク・ノゲーズは丹念に追う。そこから浮かび上がってくるのは胴間声でシャンソンを歌い、夜通しダンスに興じ、あらん限りの生を満喫しようとした男の姿である。

レーニンのこうした側面――馬鹿騒ぎ好きで陽気な側面――に、とりわけ左翼系の歴史家は触れたがらない。しかし、歴史家の苦労をよそに、本人は妹マニャーシャに宛てて、次のような手紙を書き送っているのだから、いい気なものである。
宵の間、『どんちゃん騒ぎをやらかし』ました。(……)今日だってキャバレに出掛けて、『革命的歌芸人』にお目にかかって来ようと思っています……。
このようなご陽気者が、近所でも評判のキャバレに顔を出さないことがあり得ようか? たとえば夏の夕べ、ソーセージの蒸気を避けるために……。

おわかりであろう。バルが名前を思い出せなかったという「第四の人物」とは、レーニンその人にほかならない。そればかりではない。レーニンこそダダ運動の中心的人物であったことを、ノゲーズは巧みな手さばきで論証していくのである。

そもそも「ダダ」という名称の発案者は誰か? ツァラによれば、自身がラルース仏語小辞典から選んだのだという。バルによれば、自身とヒュルゼンベックが独仏辞典の中で発見したのだという。ほとんど功名争いのようだが、ハンス・リヒターによれば、1916年当時、誰も「ダダ」の名称の由来など気にしてなかったという。
当時、私はいとも無造作に(というのは、誰もそんなことは気にしなかったから)、ダダという名が、明らかにスラブ語の「ダー、ダー」という生来陽気な肯定方式と親密な関係を持っている、と推測していた……。
ノゲーズは、日付が合わない等の理由から他の説を退け、このリヒターの証言を信頼に足るものとして採用している。では、仲間内で最初に「ダー、ダー」と発語し、運動の方向性を決定づけた人物とは誰だろう? 陽気なスラブ人、レーニンをおいて他にはいない。

とはいえ、ダダイストたちの記録にレーニンの名が登場しない理由は? また、バルがその名を伏せた理由は? バルたち少数の者をのぞいて、誰も変装したレーニンに気づかなかったのである。事情を知るバルたちにしても、亡命者の身の安全を図り、あえて名を口にしなかったことはいうまでもない。

推測に推測を重ねただけではないか、とおっしゃる方もあろう。しかし、ノゲーズはパリのドゥセー図書館で決定的な証拠を発見する。トリスタン・ツァラが書いたとされる詩篇「弧」の生原稿。これを、1905年にレーニンがフランス語で書いた手紙と比較したところ、筆跡が完全に一致したのである!

1905年の手紙を、当時9歳のツァラが書くはずはない。とすれば、ツァラが書いたとされる詩の、少なくとも一部はレーニンが書いていたことになる。レーニンがツァラに影響を与えたのか? あるいは、その逆なのか? それはわからないが、両者の思想が渾然一体となってダダ運動を、そして、ロシア革命を牽引していったと見ても間違いないだろう。

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