
ツァラはチューリッヒを去ったのち、パリへ赴き、シュルレアリスト・グループに加わっている。
当初、グループの一員であったダリは、ややあって除名処分を受けるのだが、除名後もツァラとは親しく付き合っていたという。画面の左側には長身の男が一人、われわれに背を向けて腰かけている。彼の背中にはカーテン状の襟がピンで留められている。この男が誰であるかは、次の証言から明らかである。
ある日の興行について、ジョルジュ・ユニェは言う。
ヤンコは彼の興行のために、ピンで留めた(……)ぼろの服を(……)デザインした……。「彼」とはフーゴー・バルのことである。バル自身は次のように言う。
私はヤンコと私が特別にデザインした衣装を着た。(……)その上に私は大きな飾り襟を着けた……。長身の男はフーゴー・バルであり、がらんとした部屋は、おそらくレーニンとともに客を待ち受けるキャバレ・ヴォルテールである。ツァラが漏らしたダダ黎明期の秘密を、ダリは暗号のように、そっと画布に塗り込めていたのである。
(ダダは)変化する――確言する――いちどに反対のことを言う……。ツァラの『弱き恋と苦き恋についてのダダ宣言』にもある通り、ダダとは矛盾への信奉、出鱈目の擁護である。レーニンがダダ運動の中心的人物であったこと。これを証明するには、しかし、筆跡鑑定もダリの絵も不要であったかもしれない。1917年、レーニンはロシアの労働者へ次のように呼びかけている。
同志労働者諸君! 今日では国家を指導するのは諸君自身であることを銘記したまえ。アルフレッド・メィエールの証言によれば、レーニンは、舌の根も乾かないうちに「こんな馬鹿げた夢想はない」と、自らの呼びかけを切り捨てている。
……数か月もすると、ボリシェヴィキに権力をもたらした民衆の統治権はすでに消滅していた。

国債は、1891年より発行され始めたもので、とりわけロシアと同盟関係にあったフランスでは、貯金をはたいて購入した市民も多かったという。だが、1918年1月、レーニンの署名のある政令によって、帝政ロシア発行の国債すべてが無効とされてしまう。
ノゲーズの指摘によれば、これはダダ的スローガンに一つの具体的な表現を与えたものである。『弱き恋と苦き恋についてのダダ宣言』の最終ページを見るといい。そこにはこう書かれているのである。
ダダ公債をお買いなさい
なんにも返ってこない唯一の公債です
![]() |
ムッシュー・アンチピリンの宣言 ― ダダ宣言集 トリスタン・ツァラ |
まずは、この一冊の再確認から始めよう。ダダ運動のエッセンス。 |
邦訳は、1990年にダゲレオ出版から出されている。本稿の引用はすべて、このダゲレオ出版『レーニン・ダダ』からの孫引きである。この手の高度な冗談は、日本ではまことに数が少ない。小林信彦がW.C.フラナガン名義で書いた「素晴らしい日本野球」を、わずかに思い出す程度である。復刊を望む旨を改めて特記しておきたい。
1 2 3