どうにも無粋な話だが、詩というものがわからない。
そもそもの詩とは朗誦されたものだろうし、朗誦しやすいように韻を踏み、音節数や長短母音の組み合わせも決められていたはずである。つまりは、定型詩。これならわかる。あやめ(菖蒲)を恋の綾目に引っ掛けるような、古今集の和歌もいいと思う。まるで都々逸のようだ。その都々逸も定型詩だろうから、理解できる。対して自由詩、現代詩は何のために作られるのかがわからず、読んでみてもさっぱりわからない。
ボードレールによれば、二流詩人の詩は文句なしに読者を面白がらせてくれるのだという。一流の詩はわからなくとも、二流の詩なら楽しめるのかもしれない。明治・大正期の二流詩人の詩など、読んでみたい気もする。ただ私ですら名前を知るほどの詩人なら一流なのだろうし、いったい、どのあたりが二流なのかもわからない。二流詩選集、のようなものが出版されていたりするのだろうか。そこら辺から、まず調べてみたいものである。
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思考の紋章学 澁澤龍彦 |
思考の軌跡が無益で無目的な、無責任な紋章を形づくるように書いたと著者はいう。僭越ながら、本稿もこれに倣う。 |
白くふっくらした瑪瑙のような16世紀の二流詩人だけではない。どう転んだって一流であろう、19世紀のボードレールその人にも「巨大な女」と題した詩があるという。うかつにも澁澤のエッセイを読むまで、そんな詩が『悪の華』の中にあることを知らずにいた。詩のわからない私でも、このぐらい有名な詩集は持っているわけだが、結局は積読状態であった新潮文庫を引っぱり出してみると、堀口大學訳では「巨女」となっていた。
二つの小山の見え隠れする
あの白い野原のあたりを
お前は浮かれて歩きまわる
あの白皙と紅色をした胸乳の
人間のものと思えない美しさの間を
(澁澤龍彦『思考の紋章学』河出文庫)
野末かけ長々と寝転ぶ時よ、愛でやしにけんこのおのれ、こうした巨女崇敬は、詩人それぞれの嗜好にとどまらず、人類普遍の神話的イメージに結び付いたものではないか。地母神アルテミスの巨像、千手観音像などを例に挙げながら、澁澤はそう解釈する。また「最近」の例として、フェデリコ・フェリーニの映像にも言及している。観音には本来、性別はないとされているが、それについてはまた後で触れるだろう。ともかくも詩の苦手な私としては、映画の話の方がありがたい。
山裾の平和なる村里のごと、
その巨女の乳房のかげに、のびやかに、まどろむことも。
(ボードレール『悪の華』新潮文庫)
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澁澤がこの「姉の力」を書いたのは、1975年頃と推定される。したがって、1976年に公開されたフェリーニ作品『カサノバ』はまだ観ていまい(日本公開は1980年)。ただギネスブックにも記録された巨女サンディ・アレンの出演と、冒頭で水面から顔を出す女神像の異貌とは特筆に値する。
執筆時期に近いのは前作、1973年の『アマルコルド』である。この作品には豊満というより巨大な乳房をもつ煙草屋が登場し、主人公の少年を押しつぶす。もっともフェリーニの映画には、どれにも巨女が登場するから、特定の作品を意識した言及ではないのかもしれない。1963年の『8½ 』で、ルンバを踊りだす巨女サラギーナも強烈である。
さて申し上げておくと、私がこのエッセイを読んで、まず思い浮かべた映画はフェリーニではない。ファンも多いから書きづらいが、どちらかといえばペダンチックな傾向のある澁澤が、取り上げるはずもない作品群である。いまとなっては澁澤龍彦も、異端どころか正統、マイナーどころか大メジャーな存在で、よほど私の方が異端のような気もしてくる。まあ、異端を気取るつもりもないが、第一の作品群は次ページの通りである。
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