10分でわかるニーチェ


10分で読んでいただくため、プラトンやカントについては省略する。ここでは、ニーチェがもっとも攻撃したキリスト教だけを取り上げよう。もう一つだけ標語を。

人と比べているようじゃ、まだまだ。

人と比べて自分の中に優位な点を見出し、それで気分よくなっているようでは、まだまだ気分のよい生き方とはいえない。キリスト教徒の場合は、さらに気分がよくない。優位な点を見出すのではなく、捏造してしまうのだから。

キリスト教の根底にあるのは、リア充への嫉妬心である。

キリスト教徒は非リアルな空間に、「リア充は罪である」とする歪んだ道徳を作り上げる。そうした上で、次のような勝利宣言をするのである。

「奴らは旨いもんを食って、いい女を抱いている。しかし、世の終わりに勝利者となるのは奴らではなく我々である」

いま「歪んだ道徳」と書いたが、ニーチェに言わせるならば、歪んだ道徳と歪んでいない道徳があるのではない。すべての道徳はそのように、歪んで作られたものだと言い切る。ほとんどキリスト教の影響もなく、あまり禁欲的ともいえないのが現代日本である。しかし、そのような「道徳」は、現代日本に住む我々にとっても無縁ではない。

「奴ら政治家は汚い。我々正直な庶民の方が奴らより偉い」
「A子はイケメンの彼氏と付き合っている。でも、優しくて浮気をしないB君と付き合ってるあたしの方が幸せ♪」
「地球は物欲で満ちている。地球人とは違い、物欲とも無縁のシリウス星人である僕は、アセンションで次元上昇できる」
「あいつはニーチェ名言集で儲けたかもしれない。しかし、真のニーチェを理解しているのはあいつではなく、この私だ」

ツァラトゥストラ (中公文庫)
ツァラトゥストラ
ニーチェ
超訳もあれば、最近ではいろいろな新訳もある。読み比べてはいないことを告白したうえで、それでもお薦めするならば、風格のある手塚訳だ。
そのような考えが間違っているかどうかは、まったく問題ではない。聞く方にとっても、聞かせる方にとっても、気分が悪いという点が重要なのである。

では、リア充であることが強者の条件なのか?

旨いもんを食い、いい女を抱けというのが、ニーチェの哲学であったか? まあ、そんな単純なものだったら、死後100年も経って論じられることもないし、丁寧に超訳されることもない。

強者とはリア充であるとしたうえで、リア充の条件を考えてみよう。旨いもんを食い、いい女を抱くことだけが条件であろうか。たとえば学歴は? 地位、名誉、権力なども簡単に思い浮かぶ。

東大出の社長はハーバード出の貧乏学者に嫉妬し、イケメンと付き合っているA子さんもハリウッド・セレブには負ける。ハリウッド・セレブも、ビル・ゲイツほどの贅沢はできない。ビル・ゲイツにしたって、若く貧しい恋人たちに嫉妬するかもしれない。

リア充を自認する者が次のように呟いたとしたら、どうなるだろう?
「彼はハーバード出だ。しかし、私は彼よりもいい女を抱いている」
「彼らは若く幸福そうだ。しかし、私は彼らより旨いものを食っている」

数ある諸条件の中から、あえて「旨いもの」を選んだとするなら、それもまた一つの「歪んだ道徳」にしかならない。リア充が強者の条件にならないことは、明らかである。

では、どうすればよいのか? この問いを「どうすれば強者になれるのか?」と解してはならない。強者になろうと望んだ時点で、弱者であることは決定的である。要は、強者になろうという意志を捨てることである。強者になるために意志を捨てるのではない。かつて自分が強者を目指していたことを忘れ去った者こそ、真の強者なのである。

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