さあ、強者になる意志なんか捨ててしまおう。
だが、そうであるなら、「強者」「弱者」などという区別が必要だろうか? また最初に掲げた標語は、どんな意味を持ち得るのか?
もっと気分よく生きよう。
「生きよう」とは「生きるよう意志せよ」という勧めにほかならない。そして、気分よく生きる者こそ強者であったはずである。では意志すべきなのか、すべきではないのか?
ニーチェの哲学が唯一の正しい解釈を許さない理由は、ここにある。「意志せよ」をつかめばニーチェは「意志するな」へと逃げ、「意志するな」をつかめばニーチェは「意志せよ」へと逃げる。ニーチェの哲学とは、この「意志せよ」と「意志するな」との間の往復運動、もしくは回転運動にほかならない。
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喜ばしき知恵 F. ニーチェ |
ニーチェ本人による美しい箴言集の新訳である。超訳ではない。 |
ただニーチェを読むとき、自分の内にある何物かの更新を迫られているような気が私にはするのである。平板で薄っぺらな自己啓発書、読んだ直後だけは気分のよくなるスピリチュアル本が世にあふれ返るなかで、それは貴重な読書体験ではあるまいか。
『超訳 ニーチェの言葉』に話を戻すならば、真のニーチェの探求などせず、この本を読んで気分がよくなる人こそ、あるいは強者なのではないか。古本チェーン店で手に取っただけなので、よくわからないが、そんな印象をもっている。既に超訳されたものを超訳する必要もなければ、既に強者である人が更新される必要もないだろう。
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